昭和40年02月13日 夜の御理解
小さな信心には行き詰まりがある。大きな信心には行き詰まりがないと私は思う。どうですか、大きな信心をさせてもらわねば、大きなおかげは受けられません。お互いぶりぶりとしたそのおかげを頂きたいと願うならやはり信心もぶりぶりとした信心をさせてもらう。と云う事はぶりぶりとした心で修行させてもらう。ぶりぶりとした心で改まらせてもらう。ぶりぶりとした心で磨かせて頂く。
それにそう云う事にですね、その本気で焦点をおかなければいけません。只おかげを頂きたいと思うておるだけで、そりゃ思うておる、その神様にお縋りしておるだけではいけません。その思いが切実であるなら切実である程、一つそう云うぶりぶりとした心で改まらせて頂こうといつも心掛けとかにゃいかん。改まらせて頂こうと、いつも磨く事に心を使うておかにゃいけん。
それでいて、初めてぶりぶりとしたおかげが頂けてくるとこう思う、ね、だから問題はぶりぶりとしたおかげを頂きたいけれども、ぶりぶりとした信心ができない所に問題がある訳なです。一生懸命お参りはしよるけれども、本当これ一丁改まらんにゃいかんと、自分がここを改まらにゃいかんちゅう所に、ぶりぶりとした心で、本気になっているだろうかと、本気に限りなく美しゅうならせて頂こうと、汚い心を捨ててゆこうと云う事に、本気でぶりぶりとした心でおるだろうか。
今日、私御神前に出たらね、『あのぶりを何台も何台も、あのお三方にお供えしてある所を頂きまして』ね、今日の御理解を頂いておるんです。これは皆んなの願いであろう。ぶりぶりとしたおかげを頂きたい。為には、そのぶりぶりとした、そのぶりをね、神様にお供えせにゃいかんのですよ。ね。なら神様が一番喜んで下さるのは、そのぶりぶりとしたその「ぶりのお供えをしろ」と、言うんじゃなくてです。
ぶりぶりとした心で磨かせてもらうと、ぶりぶりとした心で改まらせて頂こうと、ぶりぶりとした心で信心修行をさせて頂こうと云う。そこにいわばです、そこにぶりぶりとしたおかげが頂かれる。今日は13日会でしたが、又今日はもう2階で出来ませんから、ここのお広前でした。もうお広前一杯でした。ほんとにあの今日お参りした方達はおかげを頂きたいと云うのじゃないですね。
例えば御利益を頂きいたと云うのじゃないです、本当に神様に喜んで頂くような、信心を分かりたいとこう願う人達ばかりの、云うなら集まりなんです。皆んな果たして、厳密にゆうたら又、ね、そのおかげを頂きたいと云う事でしょうけれど、神様の願いに応えると、神様の願いに応える信心をさせて頂こうじゃないですかと云う共励ですね。それが椛目で、段々40人が50人になり、50人が60人になると云うふうで、増えていきよると云う事は本当に有難い。
本当に神様のお喜びであろうと思いますけれどもですね、そう云う人達の中に、今日は、あのぶりぶりとした心で一つ本気で改まろう、ぶりぶりとした心で修修行させて頂こう、本気でぶりぶりとした心でお参りさせて頂くぞと云う人達がついお供えして行かれたのじゃなかろうかと思いますね。
今日お参りした人達の中に、その事を神様に誓って行った人達の事を今晩私は御心眼に見せて下さったのではなかろうかと思いますね。中には。あの麻生さんの話しを聞かせて頂いたんですけれども、先日御商売で門司の方へ行かれたんですね。電車に乗られた所が35円もらわんならんのに、運転手さん、あの車掌さん25円しかくれなかった。「おい君10円足りんじゃないか。」と言おうと思ったけれどもねぇ。
まあまてまて、こりゃ神様が何かこの10円の事にも御神意があるのに違いないと、何か神様が分かれと言いござるに違いないとこう思うたから、言わずにその事を一生懸命考えた。どう云う訳に10円自分は損しなければならなかったかと云う事。ね、頭を打った。あいたよだけじゃなくてです、どうして頭を打たなければならなかったかと云う事を思い続ける考え続ける、ね、考える葦(あし)って云う事をいういますね。
今日私、あのお道の新聞を見せて頂きよりましたら、歩きながら考えると云う言葉が出ておりましたですね、歩きながらでも神様の事を考えておると云う事はね、それはどうゆう事を考えておるかと云うと、やっぱり、そりゃ考えておるだけではいかんですもんね。なら、例えば、ほんなら今、難儀なら難儀な問題があるならば、どうしてこう云う難儀な事にならなければならんのであろうかと云う事を思わにゃいけん。
そして今朝なら今朝頂いた御教え、昨日頂いた御教え、今晩頂いた御教えと云うふうに御教えを基にしてから、「ははあ、ここに難儀な基があったんだなぁ」って、事が分かる。 分かる事も有難いけれどもですね、そう云う事によって神様を身近にとらえておくと云う事が、もっと有難い。ところが何です、損したのは10円だったのですけれど、その行く所行く所、行く所御商売が順調にゆくっち訳なんですね。
ははぁ神様の御神意は、こう云う所にあったんだと云う事になった訳なんです。それは10円損した難儀ではなかったと云う事。神様、先にこう云うおかげを下さる為にだったと、それ神様を身近に感じていなければ必ず受けもらすわけなんです。ね、神様を身近に心に頂いておくためにです、私共様々な、どう云う訳で自分が10円損しなければならなかったのかと、思い続けておりましたら。
今度は御商売の方が次々と順調にお繰り合わせ頂いたと云う話しを聞かせて頂いたんですけれど、結局は、私はその神様を絶えず自分の心の中に頂き続けると云う事。ね、そして今日、私おそらく今日の13日会に御参りされた方の幾人かの方がですたい、本気で一丁改まるぞと、本気で磨かせて頂くぞと、本気で神様の喜んで頂けれるような、御用をさせて頂くぞと云う願いをですね、奉っていかれたらですね。
そんなはずはないのに、あのお神酒やらがお供えしてあったあそこが、みんなぶりでぶりのお供え、大きなぶりのお供え、お三方に乗っておる所を頂いた。皆さんが、そう云う心をお供えしてゆかれたのであろうと私は思うんです。どうでも皆さんもねぇ、一つ、ぶりのお供えをしていって下さいよ。ね、そこにぶりぶりとしたおかげなんですよ。ね、だからお参りすると云う事だけではいかん。
この神様は所謂話しを聞いて助かるとおっしゃるですから、そう云うような話しを聞かせて頂いて、ははぁ自分なお参りしよるけれどもお話しは頂きよるけれども、改まらせてもらう事に磨かせてもらう事に、ね、本気で修行させて頂くと云う事にそう云うぶりぶりとした心を使っていないと云う事に気を付かせて頂いた、これでは自分が願っておるおかげは、ぶりぶりとしたおかげにならんなぁと思うてまず間違いない。ね。
自分の心の中にぶりぶりしたその心で願い、又は詑びると云う事を申しますが、本気で改まらせてもらおうと、本気で磨かせてもらおうと云う、それを神様にお供えなさる、それが一番神様が喜んで下さる。そう云う同時にです、ぶりぶりとしたおかげを願う、所謂、せっかく願うなら大きなおかげを願わにゃいかん。せっかくするなら小さい信心じゃいかん。大きな信心をさしてもらわにゃいかん。ね、
大きな信心には行き詰まりがない。愈々人間の幸せをになわしてもらう為の信心修行がですね、日々出来ていく所のおかげを頂かにゃ、もう私このおかげば一丁頂きゃもう別に欲なことはいらんと云ったような、ね、いわばケチな信心はいけません。そう云う信心では、迫力が出ません。ぶりぶりとした心が生まれてきませんって。私達が大きな願いを持っておる。ね、私どうでもこうでも、日本一を目指して頂いておる。ね、
まあこれこれ聞いたら、人が聞いたら気違いと云うかも知れません。けれども願いを持っておる事だけはいいです。ですから、どげな修行があっても、こげな修行があっても、ははぁ、こりゃそう云うおかげを頂く為の修行であろうと、こう云う願いを持っておるのだから、人並みの信心じゃでけん。人が1の信心する時にゃ5も10も信心さしてもらわなければという、盛り盛りとしたと云うか、ぶりぶりした心が、私頂けるのじゃないかとこう思うですね。
おかげ受けなきゃいけません。